わが師チャンパ・ラ―まえがきにかえて

人生は、よく旅に例えられるが、私の旅は大学四年生の時に、インドへ、という形で始まった。一回目のインドへの旅では、ただこれといった目的もなく、バックパッカーとしてネパール、インドあたりをウロウロしていたわけだが、この旅で私が出会い、そしてその影響が今にまで及んでいるものが二つあった。仏教とタンカである。

北インドの山岳地帯での十日間のメディテーションコースというものにわけもわからず参加した時に、私たちを指導していた欧米人から、初めて仏教の本質を聞かされた。

いっぽう、タンカとの出会いは、ネパール、カトマンズの土産物屋の軒先に、必ずと言っていいほど飾ってあった宗教的な絵柄を目にしたことだった。あまりに緻密で複雑怪奇であったため、とても人間が描いたものとは思えず、その不可思議さ故、私の脳裏に強烈にインプットされた。

二度目のインドは、大学を卒業して二年ぐらい経ってのこと。私はまずネパールへ飛び、しばらくの後南インドへ向かった。粗末な紙に木版で刷られた黒一色の線描きのタンカをカトマンズの店で買い、そのまま丸めて持って行った。

南インドの海岸沿いの小さな村で暮らし始めると、何の束縛もなく続く時間を持て余した。持ってきた線描きだけの絵柄に色を塗り始めたが、その塗り絵のような営みはただの時間潰しと思っていたのだが、まさかこれが自分の一生の仕事となるとは想像だにしていなかった。

そうこうしながら二~三ケ月が瞬く間にすぎていった。インドでの時間の流れ方はどこか違う。こんどは北インドの山岳地帯にあるダラムサラという地へ向かった。このころの旅は今の若者たちの旅とは、まったく様相が異り、インターネットはおろか旅行案内書の類もほとんど無く、出会った旅行者と話を交わし情報を得る以外、これといった前知識は誰も持ち合わせていないのが普通だった。当然地名を含め、ダラムサラに関してはまったくの無知であった。

旅も人生も先のことなど何にも予想はつかない。人は、何かしら将来のことに対し予想し計画を立てたがるが、たいていの場合、その予想とは異なった結末を迎えるものである。先のことなど何にも考えないで行動した方が、かえって思ってもいなかった大きな成果をもたらすことだってあり得る。いや、そういうことは往々にしてある。少なくとも、この時の私は、まさにそういう状況であった。

ダラムサラに初めて着いたとき、やたらチベット人が多いことに気づいた。そしてダライ・ラマという名称も初めて聞いた。さらには、あのタンカを描いている人間がこの地に居る、ということも耳に入ってきた。どうしても見てみたかった。あの人間業とは思えないタンカを描く人間を。

その人は、私の予想とはまるで違った平凡なおじさんの様に見えた。ただ忘れないのは、彼の絶やすことのない大きな笑顔だった。生活は難民そのもの。土壁が剥がれたボロボロの家に住み、服装といえば他のチベット人と全く同様みすぼらしいもの。後で知って仰天した。まさかこの人がダライ・ラマ法王宮殿付きタンカ絵師であったとは。

突然現れた外国人の私に、彼は身振り手振りでタンカを描くことを奨めているように見えた。私は、翌日から紙と鉛筆をもって彼の家に通う生活を始めた。好きな時間に勝手に訪問し、私が描いたものを彼に見せ、十分、二十分後にはまた、もと来た山道を上って帰る、といったものだった。言葉を交わすこともなかったので、実に簡単なものであった。これを毎日変わらぬ日課としていた私にとって、チャンパ・ラとは、ただの普通のおじさんのような存在であった。彼の家を往復しながら過ごすうちに、タンカが仏教と深いかかわりがあることに薄っすらと気がつき始めた。

これが我が師チャンパ・ラとの出会いであり、彼が亡くなるまでの十一年の間、彼に師事してタンカを学ぶこととなった。言葉が通じない私のタンカ学習方法は、ただ見ることだった。師の指先、筆、鉛筆の動かし方、絵の具の混ぜ方、さらには絵を描く時の姿勢、仏教に関する神聖な存在への敬意の示し方、などなど。毎日異なった時刻に訪問していたおかげで、彼のいろんな生活の様子をも垣間見ることができた。

私がそういう修行を十一年間続けていたある日、先生は亡くなった。享年六十歳。没後も二十年余りダラムサラでタンカを描き続けたのち、私は十一年前に日本に戻ってきた。先生との出会いから四十年を優に越してしまったが、今も変わらず故郷の地でタンカを描いている。思い返せば、私の人生、やはりあの先生との出会いが決定的なことであった。彼からタンカを学んでいた十一年間、言葉が通じなかった私たち二人の関係は、普通にいう師弟とはずいぶん違っていた。

人は、身近にあるものに対し、余りにも鈍感なものである。失って初めて気づく親の愛情のように、先生不在の時間が経過していくにつれ、彼の真の価値に気がつくこととなった。言葉での対話がなかったので、彼の想い出は、私の脳裏に映像として残っているだけである。亡くなった後で思い出すのは、絵に関してのことではなく、ほとんどが先生の日常の暮らしぶり、立ち居振る舞いであったことも不思議である。絵は、技術ではない、描く人の生きざま、精神の在り方が最も大切なことである、と身をもって教えてくれたのがチャンパ・ラであった。僧侶ではなかったが、今にして思えば、私にとっては宗教者以上に精神的な教えを授けてくれた導師であった。"